イビったれてんなよ!

新宿駅の角にある花屋さんの前に立ち尽くしていた。


花が、ピンクや黄色、淡い色をした花たちが今日も優しく咲いていて涙が出そうだった。

 

イヤホンは耳につけているが、音楽は流れていない。

 

店員さんと男性が花束を相談しながら作っている。

「この淡いピンクの薔薇だとこちらのクリーム色のお花と合わせると春らしい色合いですよね」

 

「あっちのオレンジの花は?」

 

「オレンジとピンクだと少しきつくなるのでピンクは退けてクリームとオレンジのお花でまとめるのはどうですか?」

「じゃあ・・・」

 

花束の色合いが決まりかけた頃、『ああ、今日はホワイトデーか』と鈍く思い出す。

 

 

疲れていた。

仕事は決まらず、不採用通知が届くばかり。

しのぎで働き始めた飲食店で私は嫌われていた。

 

私ののんびりした性格なのか、話すと耳につく訛りなのか、存在なのか。

理由はわからないけど、嫌われていることはよくわかった。

 

無視されるのがデフォルトだ。
「おはようございます」も「ありがとうございます」も一瞥もくれず、もちろん言葉が返ってくることはない。

怒る時だけ話しかけてくれるがたいてい身に覚えのないことで怒られていた。

 

最初は正直彼女たちの反応が面白かった。

『へー、こういうことする人って本当にいるんだなあ』

私が働き始めてすぐ様私に対する態度を決めた彼女たちのことを私は特別好きでもなかったし、嫌いでもなかった。

仕事が決まればこの場を去ると最初から決めて入った私はここが全てではなかったし、働いている11時間程度を彼女たちに無視されるか罵倒されるかして過ごし、面接や用事のある日は休みを取っていたので大体は週でいうと4,5日程度を彼女たちに要するにいびられていた。それだけのことだった。


そういう状況に気付いたマネージャーは「あなたは悪くないし、何されても態度を変えずに仕事してくれていて助かっている。彼女たちは年を取りすぎているし、うちで働いている年数も長い。彼女たちを変えるのは難しいから、あなたが彼女たちに嫌われないようにしてほしい。その方が自分としては楽なんだ」

マネージャーの言っていることはわかるし、その方が楽なのもわかるんだけど、

その日の帰りはなんだかやるせない気持ちになって、0時を過ぎているのにも関わらず、じゃがりこチーズ味をガリガリ食べるしかなかった。

 

簡単に言うと悔しかった。

 

『私、何にもしてないのに、明らかな悪意を向けられてる。なのにまだ頑張らなくちゃいけないんだ』 

 

ムカムカっとしてじゃがりこがススんだ。

ガリガリ噛んでると気持ちが良かったし、単純にじゃがりこはやっぱり美味しかった。

 

それからはシフトに入るたび疲れる一方で、夜になるとじゃがりこはススむ一方だった。


約2ヶ月。

 

好きでも嫌いでもない人に無視されて、否定される日々は私を弱らせた。

自信がもともとない私だけど、もっと自信がなくなった。

『私は人より少しだけ友達を作るのが上手だと思っていたけど、勘違いだったかあ』

何にもできない気がしてしまったし、どこへもいけない気がした。

新しく出会う誰にも好かれない気がした。

昔の口癖も戻ってきてしまった「すいません」何をしてもどこへ行っても「すいません」とよく言う私に戻ってしまった。

仲良くしてくれてお世話してくれている人へも「すいません」の口癖は止まらなかった。

 

「そんなに謝らんでええよ」「なんでそんなに謝るん?」

 

私の「すいません」が気を使わせてしまっていることはわかっているのに「すいません」が止まらなかった。

 

「(ここにいて)すいません」

「(邪魔して)すいません」


ああ。とんでもないところまできてしまっている。

冷静になってそう思った。

 

冷たい泥を心にずっと塗りつけられているような気分だった。2ヶ月。ずっと。

 

急いで回れ右!をする。

こんなに自信をなくてしまっては本当に身体を悪くする。

 

少しシフトを減らした。

単純に忙しかったのもあるのだけど、シフトを減らして環境と距離を取ることができた。

 

そしたら思い出す景色も見える景色もあった。

かつて一緒に働いた楽しい人たち、芸術祭で出会った人、ボランティアを通じて知りあった奇跡のような仲間、ダサくて暗い私を見守ってくれる地元の友達、東京出てからずっと助けてくれる同期たち、故郷に残してきた血の繋がらない家族・親友のこと。

 

当たり前のように仲良くしてくれていた人たちの存在はあたたかで心地よく、有り難いものだったということ。

 

私は彼や彼女たちが大好きだということ。

 

私はまだ闘えるということ。

 

 

春はすぐそこだ。

しょっぱいなんて生ぬるい。

6年が経った。

 

6年前は香川県にいて、気の合う友達と瀬戸内海を眺めながらドライブしてた。

友達が仕事が始まるのが19時だったから、仕事先まで送り届けて帰宅したのが19時半。

 

珍しく、父が家にいて居間でテレビを観ていた。

父はアクション系の映画が好きだ。

画面の中は真っ赤で火事の様子が映されていたように思う。

 

父がぽつりと、

「これ、今日本で起きとることやぞ」

と言った。

私に言ったのかただ声に出したかったのかわからないけど、確かにそう言った。

 

シーンが変わる、黒い波がどんどん街を呑み込む映像が流れる。

 

私は全然理解ができなくて、でも涙はずっとずっとでていて、テレビの前から離れられなかった。

 

「あの日」

 

から6年。

 

 

私は

 

「あの日」

 

「日常」を過ごしていたので、今日も「日常」を過ごした。

 

ただ、出かける前に手を合わせた。

あの時間になると目を閉じて思いを馳せた。

 

「日常」が崩されるかもしれない瞬間、瞬間を生きている。

「日常」が奪われたあとに、思い出した!じゃ遅すぎるから。

時間は過ぎていって忙しないこの土地は遠い日にしてしまうこともあるかもしれない。

 

でも今日は、しょっぱいなんて生ぬるい、いたみと悲しみに寄り添って、これからのために考える日でありたい。

 

 

願わくは私に声援を

 

その人は、晴れた日の窓に背を向けて座っていた。

畳に正座して話していたのはスポーツ選手のセカンドキャリアの問題について。

スポーツばかりをしてきた選手たちは引退後の食いブチに困るのだと、それはプロに限らず、スポーツを中心に生活をしてきた大学生にも言えて裾野の広い問題であると話していた。

しかし、その人は言った。

「やってやれないことはない」と。

例えばスポーツを引退した後に、弁護士にだってなれるのだと。

 

「やってやれないことはない」

 

その言葉を放ったその人は窓から注ぐ日に照らされてあたたかく光っていた。

光ったのはその人の背中かそれとも言葉か。

 

私はノートに走り書きをする。

 

「やってやれないことはない」

 

耳に心地よい、いい言葉だ。

 

自信なんてのはいつだってない。唯一自慢げに話せるのはお国自慢の時だけだ。

お金で買えるなら私は自信をキャッシュで一括で購入するだろう。

喉から手がでるほど欲しいとはこのことだ。

その人は誰に言うでもなく、間違いなく私ではない誰か大勢のことを思って口にしたであろうその言葉が私を射抜いた。

 

自分に向けられた言葉じゃないから響いたのかもしれない。

私に向けられた言葉なら、私は心の中で否定してしまっていただろう。

「そんなことないです」と。

私ではない、もっと広い人々に向けたその言葉が万人の中にいる私にも響いたのだ。

 

勝手にいいように私の言葉として受け止める図々しい私に、どうか。

 

 

願わくは私に声援を。

 

 

 

31日

2月1日である。

2017年が始まってひと月が経ったということがこの数字から見て取れる。

 

しかし、この一ヶ月。2017年が始まって31日。

私にとってはとても長かった。

帰省していたので実家で母と紅白を観ながらワインを開けて、そのうち弟カップルが帰ってきて、みんなでカウントダウンTVを「2016年の代表曲は恋やろ〜」とか言ってだらだらと観て、夕方になると友達夫婦の新居を拝みに出かけその息子には敵役に任命されてなんだか仰々しい仮面ライダーの武器で斬られ、帰りに親友の家に寄り、夜が更けるまで話し込んだあの元日から31日が経った。

 

帰省した時間が楽しかったのでなんだかニヤつきながらタイピングしているけれど、それからの時間が長かった。

 

東京に戻り、仕事を見つけようと就職活動とやらに精を出していた。

 

当たり前なんだけど、学歴はほぼ中卒、業界の経験もない私に都合よくやりたい仕事がやってくるはずもなく、毎日のように求人情報サイトや履歴書とにらめっこ。

しかし、それだけしていてもいたずらに時間が過ぎるので読書したり、映画を観たりもしてみた。
しかし、しかし、仕事がないと24時間は思ったよりも長い。

 

あれ?私人生でニートするの3回目なのに前どうやって時間過ごしてたっけな?

あれ?私ってば何にも生産していないのにイッチョマエにお腹空いてご飯食べて排泄して、あれ?ごみくず?

 

あれ?私なんでトーキョー?あれ?私ってダレ?あれ?私が私たらしめるものって何なの?
あれ?あれ?

とにかく不安!なんもしてないような気がして不安!!!ううわぁぁわあああああ!!!!!!!



という毎度おなじみ、ネガティブ×考え込む+自尊心の低さがあいまって、なんだかとっ散らかり始める。

こうなったら人に会うのも自信がないので億劫になってくる。

初対面の人もいる飲み会なんて以ての外。

しかし、私は一ヶ月くらい前から飲み会の約束をしていたので煌びやかな表参道に向かった。

なんだか元気でないなあ。

久しぶりに会う人がいるのに元気ないって思われて心配かけたくないなあ。

初対面の人もいるのに私の印象が今日なのも嫌だなあ。

 

鬱々としながら席に着く。

ああ、ちゃんと会話はいってコミュニケーションとらないと。元気じゃないって思われないようにしないと。

うまく話せてないような気がするし、うまく笑えてないような気もする。

でも知ってる人の顔見てると安心するなあ。

なんて思いながらぼんやりとしていたら上京してから何かと親切にしてくれている友達に近況を報告したら、「あなたは不器用だから」と笑いながら私の目をみた。

 

 

とてつもなく「不器用」という言葉が腑に落ちた。

うん、私不器用だよなあ。今までも、今も、これからもきっとどうしようもなく不器用でどこにでもフィットできるなんてことは全然なくてわかってんだよなあ。認めたくない時もあるけどわかってんだよなあ。


なんだかふんわりと柔らかくなった。

早くしないと!早くしないと!と焦っても変わらない現状に勝手にイライラしてイライラしても仕方ないからと考えや感情を硬めて固めていたらいつの間にか支配されていて、楽しいって感覚さえも失っていた。

 

私のことを知っているよ、わかっているよ。という人がいる。

それだけでなんだか毛布を一枚かけられたように安心するときがある。

 

そのたった一つの言葉でほぐされて軽くなった私は、その場を楽しむために話し出した。

半年前に知り合ったあの人と、その日初めましてをしたあの人とも話して、たぶんひと月ぶりに楽しい気持ちが帰ってきた。

そうしたら仲良くなれる気がしてきて私の生まれ育った故郷の話、家族の話を。

初めましてをした人の故郷の話、家族の話を聞いたりしてほっこりとあたたかさを感じた夜。

 

 

おかえり、私の楽しい気持ち。

 

 

時々手放しては会いたくなって自分では会いに行けなくて苦しくなる。

そんな時に、引き合わせてくれる人がここにだってちゃんといる。

 

 

と、打ったところで今日も日付が変わって昨日になって今日は2月2日ね。

 

 

完了しない涙

人が一人死んだことがもたらす影響は大きい。


昨年、11月に祖父が死んだ。


私が18の頃に祖父にガンが見つかった。
それを告げられた後、一人になって私はおいおい泣いた。

不安で押しつぶされそうだった。

 

「おじいちゃん、おらんなったらどうしよう」

 

そこから受け入れる作業が始まった。

人の死は怖い。
その人がいないこと、その人がいない生活が想像できないこと。
みんな死ぬってわかりきって生きているのにどうしてこわいのだろう?
どうして想像もできないのだろう?

そういえば、私がまだ9歳だった頃、ひいおばあちゃんが死んだ。

私は彼女がすごく好きだった。いつも優しくて私の好きなアルファベットの形をしたビスケットを用意してくれ、私の顔を見たら喜んでくれる彼女が大好きだった。

そんな彼女が死んだ。
これも病気だった。とはいえ、89歳だったのでほとんど老衰のようなもんだと大人たちは言っていた気がする。


私は悲しかった。

優しい彼女に悲しくなった私を慰めてもらうことができなくなったこと。

しわしわの華奢な手で頬を撫でてもらえなくなったこと。

手作りの甘酒を冷蔵庫で冷やしてコップに入れて一緒に飲むことができなくなったこと。

こんなに悲しい気持ちになることがあるんだ。この世には。

お母さんがいてお父さんがいておじいちゃんが二人におばあちゃんが二人。

姉と弟がいてきょうだいのような飼い犬がいる私はあと何回この苦しい気持ちを乗り越えないといけないんだろう。

ゾッとした。悲しいことの方がこの先多いんじゃないかと思ってそのことも悲しかった。

 

祖父の死は近い将来やってくるのかもしれない。

だとしたら祖母だって例外ではない。
世間では立派な後期高齢者にカテゴライズされる年齢だった。

いくら怒鳴り散らかし悪態をつくエネルギーがあっても、それはゆっくりと祖父に近づいてきているのかもしれない。
 


「ともし火はたいせつにしましょう。風がさっと吹いてきたら、その灯が消えるかもしれませんからね」昔読んだ星の王子さまが私の耳元で囁いている気がした。

 


私は孫の中でも一番、祖父と相性が悪かった。

子供の時からずっとだ。
祖父が遊んでやろうと私を引っ張ると私の腕は簡単に抜けた。祖父は私のそういう弱さも、気持ち良く吸っているタバコの煙に過剰に咳き込んでしまう弱さも、誰かが怒り出すと空気が震えてそれで泣き出してしまう私の弱さも、なにより怠け病になり高校を辞めた理解不能な弱い部分に。

とにかく怒っていたように思う。

怒られていたから近寄れなかった。

 

定期検診によくついて行った。車内はよく無言だった。

たまに喋っていても祖父は私がどうダメであるかの話をしていた。

手術の日は毎回仕事に休みをもらって祖父を見送りに行った。
手術が終わるまで病院内のスターバックスで本を読みながら待った。何を読んでいたか覚えていない。

祖父から取り出した祖父のものかもわからない「悪い部分」とやらもこの目にしてきた。

 

少しずつ、近くなっている感覚があった。


近づいてくるに連れて覚悟を決めようと心がけてきた。

特に晩酌をしなくなった祖父を見て一気に距離を詰めてきたなと感じた。

 

祖父が亡くなる2年前の正月の祝いの席で「お前はわしが死んだら喜ぶやろうな」と急に言われたことがあった。
腹が立った。頭に血が上ったと感じたら涙が出ていた。そう見られていることがとても悲しかったし、訳がわからなかった。

私と祖父はいい関係ではなかった。「仲睦まじい祖父と孫」では決してなかった。

顔をあわせると私は必ず傷つけられてきたように思う。


食が細くなってきた。
嗜好も変わってきていて祖父がわからなくなった。

それと同時期に祖父が私に悪態をつかなくなったきた。

秋口に家族で淡路島へ旅行にいった。
その夜、祖父は「うちの孫は三人、甲乙つけがたい。みんな優しい」とポツリと言った。
うちの姉と弟は確かに優しい。祖父にも優しくしているし、他人にも優しい。

祖父の視界から見て私と姉・弟が甲乙つけがたくなる時が来るなんて。

 

これはいよいよかもしれないと思った。


10月の中頃帰省した私は東京に戻る前に祖父に挨拶しに行った。
「ちょくちょく帰れよ。顔見ると安心する」と祖父が言った。

私は照れてしまって「10月末か11月頭にまた帰るけん、待っといてな」と部屋を出ながら言った。


祖父は私が帰省する2日前に死んだ。


覚悟を決めて決めて決め続けた8年間。
実感などなく実家に入り、祖父の冷たくなった頬に触れると涙が出た。

生きてた頃は祖父の頬には怖くて触れられなかったのに、死んだらたやすく触れられた。

怒ってばかりの祖父だったのに死に顔は穏やかに微笑んでいた。


やっぱり悲しかった。大好きな優しいひいおばあちゃんが死んだ時と同様に悲しくて悲しくて仕方がなかった。

あっという間にお通夜と葬式の段取りが決まった。
お通夜が終わり、朝目覚めると祖父が青い顔で寝ている。
顔を洗う、祖母と叔母の話し声が聞こえる、『あれ?じいじの声がせんな、様子見に行こう』と当たり前のように寝起きの脳みそが思考する。

『あ、じいじが死んだけんみんな集まっとんか』と鈍く思い出す。

 

通夜も葬式中もこれでもかってくらい泣いた。冷たい頬に触れるたびに泣いた。

御出棺というやつの時も泣いた。祖父を燃やす前に顔を見せてくれた時も泣いた。

 

焼けてボロボロの骨クズになった祖父をみたときは涙は出なかった。病院でみた祖父の「悪い部分」と同じくらいに祖父のものという感じがなかった。



夢で祖父が出てくる、私は香川にいて生活の中に当たり前のように祖父が出てくる。

 

東京の街中で祖父が出てくる、『寒くなったけどじいじ元気かな?わがまま言うてみんな困らせとらんかな』思考の一部のように祖父が出てくる。

 

それは叔父が亡くなって半年ほど経ったときに一人暮らしの部屋で『もう叔父さんには二度と会えんのや』という実感と共に出てきた涙とは違う。あれはたぶん完了した涙だったんだと思う。叔父の死を受け入れますよ。と気持ちが完了したときに出てきた涙だったんだと思う。


祖父の死はまだ完了していない。

『じいちゃん会えんのや』と思い切れていないのかもしれない。涙が出そうになっても泣ききれない。


 

大きな影響の中に私はまだいる。

 

 

傷には軟膏

傷をすべてみせた人がいた。

20歳の夏だった。

 

膿んでて腫れていてぐじゅぐじゅで異臭だってしたかもしれない私のそれをみて、そのひとつひとつに軟膏を塗ってくれた人がいた。


今までに何度か、自分で自分を終えようと考えていたことがあった。その何度目かの折にその人は私の隣にいてくれた。

 

ロクに食事も摂らず眠らない、シフト制の仕事であるにも関わらず欠勤を繰り返し、気が緩めば涙がポトポト落ちてきて息が上がる。
「めんどくさい」そういう言葉で括られる私であった時、括らずに決めつけずに時々話す私の言葉に耳を傾けて丁寧に相槌を打って私が私に向けた否定をゆっくりと否定してくれた。

食事を摂らなかったのは食欲がないのとは違って、許されない気がしたから。

他の尊い命に私の命は生き方は値しないと思ったから何も食べれなかった。

不思議とお腹は減らず、苦痛もなかった。

 

夜は眠れなく、長く暗かった。

寝れない間中、不安がいつも追いかけてきた。どうしたって追いかけてきたもんだから怖くなって一人で夜を歩いた。
田舎だったから見上げれば空は美しかったであろうその時に顎を上げる力もないくらいに疲弊していた私はずっとアスファルトをみて歩いた。

仕事は好きだった。

行きたくないわけではなくて行けなかった。どうしたって身体が起き上がらない。駅までどうにかたどり着いても息が上がって目の前が真っ暗になって、救急車で運ばれたりなんかしていた。

とても弱っていた。
傷だらけで立てなかった。気が付いたら泣いている。このまま何も食べずにいたら自分は失くなるんじゃないかな、なんて淡い期待を抱いていた。

死ぬのは怖かった。でも生きることのほうがもっと怖かった。
高さのある建物に入るとじっと地上を見つめていた。吸い込まれそうな時決まって肩を叩いてくれて遠くを指差し他愛もない話をして私の注意を景色に向けてくれる人がいた。


ご飯もたべれるようになり、夜も眠れる時間が増えた。仕事もちゃんと行けるようになった。
自分を終えたいと思うこともなくなった私。


傷のすべてを見せれる人はいない。
でも、この傷はこの人には見せれる、この傷は彼女に知っておいてほしい。そんな風に私の傷の一部を人に話すことができるようになった。

一人の人だけに傷のすべてをみせることと、少しずつ軽く分けてわかってくれそうな人に傷を見せること。

そのどちらが正しいのか、むしろ人に傷をひけらかすことがいいのかわからない。

ただ誰かとわかり合いたいから。

そのわかり合いたい誰かを受け入れたくて私のことも受け入れてほしくて。

私がしてもらったようには上手に軟膏を塗れないのかもしれないけど、

私に傷をみせてくれた誰かのそれにできるだけ長く穏やかに寄り添いたい、26歳の秋である。

今晩空いてる?

「今日の夜空いてる?」

ポンとiPhoneが光る。

引っ越して4ヶ月が経つ。

 

こっちで出会った友達、今晩の予定を聞いてくる。
生憎今日は仕事。

夕飯に誘おうと思って私に連絡をくれたよう。

 

すごく普通のやりとり、当たり前。

 

地元で25年過ごした私、

故郷では当たり前に来ていたお誘いたち。

遊ぶ間もないくらい働いていたので

急な誘いにイエスと答えれないことが多い日々だった。

 

にも関わらず、私の友達は懲りずに誘い続けてくれていた。

 

 

友達は0からのスタートだった新生活。

急に誘ってくれる友達がいる。

光る液晶を見るとニッコリする私がいる。

相変わらず遊ぶ間もないほどに働く私。


嬉しい気持ちは変わらないから、

当たり前をまた私にくれる新しい友達と、

次は夕飯を一緒にしたいな、って。